カウンセラーコラム

2016-05-01【恋愛】

第6回新恋愛心理学-社会的マゾヒズムと恋愛-
「社会的マゾヒズムと恋愛」


社会的マゾヒズムとは、性的な行為や肉体的苦痛からくる性的快楽とは無縁です。
お間違えのないように。


たとえば「わたしの悪いところをフィードバックしてください」と人にお願いする方を見かけたことはありますか?

これは、社会的マゾヒストと言えます。

あるいは、
・仕事もせず一日中飲んだくれているような夫を献身的に養う妻。
・気の強い恋人から「ここで裸になれ」と言われて駅前で全裸になる彼氏。
(先日ニュースで報道されてましたね)
・「まだ何もできませんが、がんばります」と自分の無能さをアピールしたがる新入社員。
・「行けたら行くね」という約束を交わす友人。


いずれも社会的マゾヒズムです。


多くの人々は無意識のうちに、性的ではない関係を通して、お互いに傷つけたり傷つけられたりしたがるのです。

「したがる」ところがミソです。

だれからも強要されることなく自ら「したがる」のです。


「わたしの悪いところをフィードバックしてください」も1回ならいいでしょう。
ですが、短期間に何度もお願いするようなら、それはもう快楽なのです。


わたしたちの日常生活で何度も繰り返し行われる行動があるならば、それは快楽であるから繰り返されると思って間違いありません。
(これを専門用語で、「嗜癖行動」と言います)


たとえ、それが連続殺人であってもです。

最初の人を殺めるきっかけが怨恨であったとしても、連続殺人に発展するには、そこに何らかの快楽がなければ成立しません。


アルコール依存の父親を支える家族にもあてはまります。


どうしようもない父親を支え続けるには、何らかの快楽が家族に感じられなければ成立し得ないのです。


快楽には、「献身的な家族」というイメージの維持であったり、自己犠牲を愛と思い込むことであったり、優越感を感じたいためであったりします。

どれも無意識にです。



社会的マゾヒズム現象は、日常のあちこちで起こっています。
もちろんあなたの身の上にもです。

そして、ここからが重要です。

恋愛に関する限り、社会的マゾヒズムは、相手も自分も「耐え忍ぶ」ことが「愛」だと勘違いしやすい分、継続性が高くなります。


つまり、彼女が彼氏の支配下に入って、彼氏の庇護を享受する。
支配下にいる彼女は彼氏の束縛を甘受しなければならないが、「耐え忍ぶ」ことが「愛」だと思い込んでいるので、二人の仲は一見ハッピーな状態を保つ結果となる。


ああ、まどろっこしい言い方ですね。


何が言いたいのかというと、さきほど「快楽」だと言いましたが、この「快楽」は本物ではなくて
偽物の「快楽」なのです。


だから、人間関係や恋愛関係で自分の責任を放棄するような上下関係を作ってはいけないのです。

一時的には、退行現象のように心地よい保護を受けられますが、長続きはしません。

なぜなら偽物の「快楽」だからです。
(ということは、苦痛に変化しやすいということです)


社会的マゾヒストも性的マゾヒストも虐待を受けることを「愛」だと思っています。

虐待を受けることを「愛」だと思い込んだのは、屈辱と虐待の経験を繰り返し受けた過去があるからです。

その結果、虐待を受けたのは確かに自分ではあるけれど、それは自分に落ち度があったからではない、という正当化のプロセスがこの人には必要になるわけです。
(正当化しないと、悪いのは全部自分ということになり、とても生きてはいけなくなります)


正当化するためには、本当は自分の周りには「愛」が満ち溢れているのだ、という状況が必要になります。

しかし、実際にはそう都合よく「愛」が満ち溢れているわけではないので、「愛」なるものを都合よく作り出す必要に駆られます。
(この「駆られる」が大事なキーワードです)


なので、手っ取り早く「愛」ある状況を作り出すために、虐待に耐え忍ぶ自己犠牲を「愛」に置き換えるわけです。


まったくの倒錯ですね。


しかし、ご本人たちはいたって真面目に「愛」を語ります。

実は、日本人に多いですし、日本人の精神性にかなりフィットしているのです。


で、本物の「快楽」ではないとしたらいったいその正体は何なのか。


前回「自己犠牲という名の恋愛」で、自己犠牲は優越感を得るための復讐だと書きました。

復讐だとするならば、「快楽」によって繰り返されていると錯覚している一連の行動は、
実は憎しみに駆り立てられていると言えます。

こういうのを専門用語で「ドライバー」と言います。
ドライバーとは「駆り立てるもの」という意味です。


何かに駆り立てられて行動するときというのは、たいてい苦痛から逃れる時です。

ここでよーく考えてみてください。

一時的にせよ、苦痛から逃れたとき、安堵感がこころを満たしませんか?

トイレに行きたいのに、トイレが見つからず、やっと見つけたトイレで用を足したときを想像してみてください。

思わず安堵のため息をつくでしょう。

実は、これを「快楽」だと勘違いしています。


そして、しばらくすると、また苦痛がやってくるかもしれないという不安に襲われ、安心材料を探し出します。

この「探し出し」を「シーキング」と言います。

冒頭の「わたしの悪いところをフィードバックしてください」は、シーキング行動ということになります。
安心したいのです。
(不思議なことに良いところをフィードバックされても安心しないのです)


恋人に執拗に「わたしのこと愛してる?ねぇ、愛してる?」と不安から聞くのは同様の行動だと言えます。
これも安心したいのです。しかも自分だけが。

なので「愛」ではありません。

(まぁ、ふたりがよければ、他人があれこれ言う筋合いではないでしょうが。ぶつぶつ・・・)


シーキングのもうひとつのメリットは、憎しみを感じないで済む、ということです。

本人はメリットだと思っていますが、カウンセラーから見ればデメリットです。


憎しみのような否定的な感情も、それが自分の中にあるということを認めない限り解消されないからです。

解消されないと、自分の影のようにいつまでもついてまわることになります。


この世界を憎むというきっかけは、他者からの虐待や屈辱、いじめ、無視であったかもしれませんが、
それを継続させているのは、自分の責任でなされているということを知ってほしいのです。

自分にはマゾヒスティックな部分もあるし、世間を恨んでいる部分もある、と認めたところから健全な人間関係、恋愛関係が構築されていきます。




-----------------

次回から「上手な恋愛の仕方」を何回かに分けて書いていきます。

ひょっとしたら恋愛以外にも仕事や家族関係にも役立つかもしれません。

では、また来週。
日本嗜癖行動学会正会員
米国アライアント大学大学院精神病理学履修